全ての死にたい人に捧ぐブログ

生きるに値する“何か”とは何か

最後の最後

もう本当に駄目だと思ったら、Twitterで新たにアカウントを作って(ご自身にものでも構いませんが)、話してみて下さい。力になれない、解決できない可能性はもちろんありますが、また、なかなかお返事が書けない場合も(このブログ自体、全く更新できないほど)ありますが、遅くなっても必ずお返事します。一緒に悩むことだけはできます。

(ただ、僕から会おうとしたり、何かを買わせようとしたりしたら、しっかりとバッサリ切り離して下さい。つまり警戒心は忘れずにいて下さい)

(そのためダイレクトメッセージより、公開の場の方がいい気がしています。普段、全く使っていないTwitterですが、、、笑)

第13話:「世の中を良くしたい」に転化

大学時代(遅い思春期)に読んだ本で

寺山修司が言っていたのですが

 

辛いこと、苦しいことに対して

 

「政治的にものを考える人は

  社会をどうにかしようとする。

  宗教的に考える人は

  心の持ちようだと考える。

  芸術的に考える人は

  それを表現しようとする」

 

芸術的に考える人は

苦しみを何かの表現に変えようとする

 

この言葉で

自分の人生の方向性が

決まった気がします。

 

社会のあまりの不条理、

それに直面して

己の中にドロドロしたものが溜まっていく。

殺すぞ。復讐してやる。犯罪でもかまわねぇ。

もう嫌だ。もう死にたい。全てどうでもいい。

 

そんな負のエネルギーや

ネガティブなマグマ、

無気力、虚無感すら

 

芸術は、表現は、

全て吸引してくれるんです

 

映像でも、絵画でも、音楽でも、

言葉でも、目に見えないものでも、

 

何かに救われた瞬間を

もしあなたがお持ちなら

今度は、それを

提供する側にまわりませんか

 

あなたにしか出来ないことがあるはずです

 

あなたは闇を知っている

だからこそ光を放てる

 

あなたは心も体もこごえ切る寒さを知っている

だからぬくもりを与えられる

 

死にたいと思ったのなら、

あなたは既に社会に必要な人間です。

あなたと同じ痛みを抱えた人が

必ず存在します。

あなたの助けを求めてるんです。

 

『自分と似たような苦しみを

 抱える人の助けになりたい』

『世の中を良くしたい』

 

そう思えたなら、

全ての怨念も傷も苦しみも

全部があなたのガソリンになります

 

カルト宗教につかまらず

壺や数珠を買わされず

オンラインサロンのような罠にかからず

政治活動に絡め取られず

テロリストにならず

犯罪者にならず

 

あなたにしか出来ない表現、アート、

サービス、ビジネスを、社会は待っています

 

落ち込んでる暇などないのです

 

さぁ、今すぐ始めましょう

(人気予備校講師みたいでスイマセン)

出来る、ほんの小さなことから。

 

その小さいことは、深呼吸も入ります

第12話:創造のポテンシティ(潜在力)

大学時代、自主映画に取り組んでいました。

そのほとんどが完成せず、失敗に終わりましたが

青春時代のいい想い出になっています。

 

その「創る」という過程で学んだこと

それを端的に表してくれた文章と大学時代に出会えました。

誰の言葉か分かりませんが

自分の走り書きノートの、いたるところに出現します。

(難しかったらごめんなさい)

 

 

『創造のポテンシティ(潜在力)』

 

人間は人間であり、物体ではなく

もし生を創造できないのであれば

破壊せずにはいられないから

破壊的で加虐的な「激情」の可能性

持つのかもしれません。

 

それにはどう対抗すればいいのでしょうか。

 

人間に内在する創造のポテンシティ(潜在力)

つまり人間的な力を

生産的に利用しうる能力を発揮させることです。

やはり人間は無力でなくなってはじめて

破壊者やサディストでなくなり、

生に興味を持つのかもしれません。

 

自分は無能だと意識・無意識で思ってる人、

かつそれを認めたくない人や

いつもしらけてる不具者は

自尊心が傷つけられたり砕かれたりすると、

その回復の手段として頼れるものは1つ、

つまり「眼には眼を」という例えのように

復讐することだけです。

 

一方、生産的に生きている人には、

そういう必要がありません。

たとえ傷つけられ、侮辱され、損害を与えられても

生産的に生きる過程そのものが

過去の傷を忘れさせるからです

生み出す喜びというのは

復讐の欲求よりも強いことがわかる

 

 

このことを、大学時代の自主映画で、一番学びました。

 

人間には

消費より生産の方が、実は快楽が強い、

という本能がセットされている気がします。

(学園祭の準備の楽しさとか)

 

人が本来持つ高い能力を引き出してくれるもの

より豊かにしてくれるもの。

そんなアート作品やエンターテイメント作品に

今、取り組んでいます(超ムズですが笑)。

第11話:「君は独りじゃない」という偽善

第10話の最後に

「一緒に悩んで、一緒に乗り越えましょう」

と書きました。

 

これに似た言葉で

「君は独りじゃない」というものをよく耳にしますが

嘘ばっか、と思います。

 

明るく、楽しく、

他人に有意義な状態の自分は

多く人に好かれ、頼られ、“人気者”になりましたが

(ある意味 利用され、他人の養分になり)

 

暗く落ち込み、ネガティブになったら、

人は蜘蛛の子散らすように離れて行きました。

 

そんな時にTVやネット、歌の歌詞で聞く言葉

「君は独りじゃない」

 

俺は、辛いときほど、絶望的に独りでした

人は独りで生まれて、独りで死んでいくんだと。

 

そう孤立した個は、ドロドロとした闇に飲まれ

獣と化していきます。

 

もう死ぬか…。

もしくは一発ドでかいことをして

犯罪者にでもなるか…。

 

ここも不思議なもので、

こういう絶望にも堕落があるんですよね。

 

自分を俯瞰する声が聞こえます。

「死ぬ死ぬ言って、死なないじゃん」

「死ぬのか、這い上がるのか、どっちかにしろよ」

 

うるせーな、と思いつつ

第一話の言葉がよみがえります。

 

復讐してやる

 

ときに数週間、ときに数ヵ月

ときに数年かかってでも、自分は這い上がる方を選びました

 

「一緒に悩んで、一緒に乗り越えましょう」

というのは、俺の本気です。

「君は独りじゃない」という偽善への復讐

なんです。

 

あなたの心に届くかわかりません。

しかし本気で言います。

 

一緒に悩んで、一緒に乗り越えよう。

ゆっくりとでも。

(第4話にその真髄を書きました)

第10話:生きていく強さ(ハート強と卑怯は反比例)

子供が大好きです。

苦手な人もいると思いますが

子供からの被害が苦痛にならない自分は、ラッキーでした。

他人の子供でも、明日から我が子として引き取りたいほど。

 

しかし、現代は子供のことを考え過ぎて

子供が傷つかないような環境ばかりが用意された

実は子供に良くない社会となってしまいました。

 

ハートや覚悟は、筋肉に似ていて

傷ついてそれでも「自分を見失わない」を繰り返さない

ハートが強くなることも、覚悟を持てることもありません

 

今の社会はハートを鍛える場が

どんどんなくなっていってしまっています。

 

それは大人が弱いからです。

 

子供のためを思って、

子供が(本当は自分が)傷つかないようにした結果、

大人になった子供は、何の武器も装備もなく

社会という荒野に放り出されます

 

そこで大人になった子供は、我が身を守るために、

卑怯になったり、姑息になったり、卑屈になったり、

人の痛みが分からない、考えたくもない、

自分が安全ならばそれでいい、

となってしまいがちます。

自意識という壁を肥大化させ、

誰も見てないのにナルシストとなって

自分を守らざるを得なくなります。

 

ヤンキー先生・義家さんの本に

教育とは生きる力を身につけさせることだ。

 生きる力とは、転んでも立ち上がる力のこと。

 だから子供に必要なのは

 転ばぬ先の杖を与えることではなく

 転ばせることだ

 (起き上がった時に抱きしめる)

 

目からウロコでした。

自分が魚類になったかと思うほどの衝撃。

 

転んだときこそ、失敗したときこそ、辛いときこそ

我々はチャンスなのです。

強くなるチャンス

昨日の自分より

今日の自分を好きになれるチャンス

 

一緒に悩んで、一緒に乗り越えましょう

(11話につづく)

第9話:昨日の自分より、今日の自分を好きになれるか(後編)

健全な自分愛と、不健全なエゴイズムは、

似た姿をしながら、実は180度違う。

 

前者は、

自己を生かす、創造の活力源となる、健全な自分愛

後者は、

破壊と病理をもたらす、歪められた未熟なエゴイズムです。

 

フィギュアスケートの羽生くんは、

ときにナルシストに見えてしまいますが、

あの多大なプレッシャーに打ち克つために、

自己を生かす、創造の活力源となる、

健全な自分愛・ナルチシズムを持っている

素晴らしいアスリートだと拝見いたします。

 

反して、言い訳、我がまま、責任転嫁、自己中な人は、

破壊と病理をもたらす、歪められた未熟な自分愛です。

 

「自分さえ良ければ」には快楽も伴いますが、

実は自分に打ち克って、プレッシャーに打ち克って、

昨日の自分より、今日の自分を好きになる

 

その快楽の方が

「自分さえ良ければ」という快楽よりも

本当は遥かに気持ちいいのです。

 

そのためにも、神様?仏様?は

常に人間に苦しい試練を与えます

 

何度負けても、何度くじけてもいいのです。

引きこもっても、一度は腐ってもいいのです。

再び立ち上がることにこそ

人生最大の意味があるのですから。

第8話:昨日の自分より、今日の自分を好きになれるか(前編)

社会は損得で成り立っていて、

人は動物的本能で我が身可愛さを優先してしまい、

悪意は感染して、

いつしか人の心は腐っていきます。

 

それは仕方ない一面もあるのですが、

要は腐っても、『腐り切らない』

腐っても、『もう一度自分を取り戻す』ことが大事だと

年を取ってわかりました。

 

そして、知ったのは、愛とエゴイズムの違いです。

エゴイズムの延長上には、愛情に似た感情があります。

多くの人が勘違いしていますが、それと愛は別物です。

 

愛は、自分も大切な人をも守り

エゴイズムは最終的に自分しか守りません

 

愛に必要なのは、

嫌いになり切ってない自分自身がいることです。

 

自分を好きになれる健全な自分愛と(他者愛へ発展)、

自分が嫌になる不健全な自分愛(エゴイズム、他者を犠牲)。

 

この健全な自分愛と、不健全なエゴイズムは、

似た姿をしながら、

実は180度違う、両極にあります。

 

愛に必要なのは、

嫌いになり切ってない自分自身がいることです。

 

ときにそれは、自分を否定してこそ

獲得できたりします。

かけがえのない絆も、

自己犠牲や献身によってのみ

獲得されたりします。

 

(後編へつづく)